「人権という幻(ビジョン)」のバラード  ー欧米社会における人権思想の底流ー

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    「問題の設定」=キリスト教信仰が欧米社会の人権意識、近代民主主義政治の基礎になった、についてを参考資料として「世界史教科書」の記述をもとに紹介する。

 

1 「ワット=タイラーの乱」という口頭伝承

「聖職者ジョン=ボールは、ワット=タイラーとともに反乱を指導し、「アダムが耕し、イブが紡いだときに誰が領主であったの」と説き、農奴制の廃止を訴えた」(『世界史B』三省堂 2012年検定済教科書 98頁)

「イギリスでは、ウィクリフが、ボヘミアではフスが、教会改革を主張した」(103頁)

このジョン=ボールの説法の「コトバ(句)」はあまりに有名で、西洋史の教科書・概説書の定番、あるいは常識化した歴史知識である。ただし、このコトバはいうまでもなく「口頭伝承」(言い伝え)をもとにしたものであり、農民反乱(1381年)を題材とした古民話・物語に伝わった「バラード(叙情詩)」であると考えられている、(たとえば、近年の研究ではコーフィールドのイングランド近世都市研究では前提的に使用される)

ただし、大切なことは「バラード」に過ぎなくとも、口頭伝承(古民話中の叙情詩)として、教会・司祭の説法として、すなわちキリストのコトバ=教えの宣布としてつながっていたことは重要である。このことは、ウィクリフの死後に、ボヘミア(チェコ)でウィクリフの著作・英訳聖書の影響を受けて、ヤン=フスの教会改革への取り組みが行われたことによっても証明される。

フスは、コンスタンツ公会議(1414-18年 ドイツ南西部スイス国境の都市=ボーデン湖畔)において、異端審問され、ウィクリフとともに異端判決を受け、異端者として処刑(焚火刑)とされた。フスは身柄を世俗王権(神聖ローマ皇帝)に引き渡され処刑され、ウィクリフは墓所を暴かれ遺体は焼却後にテムズ河に破棄された。 

フス処刑後、1419年から36年にチェコの反ローマ教皇派がおこしたフス戦争は、ボヘミア地域(チェコ)が、1 宗教的には、ローマ教会からボヘミア教会を独立させ、自前の教会組織と神学を組織を形成、2 世俗的にはドイツ民族という異民族からの支配の離脱し、神聖ローマ帝国支配からの独立、宗教改革と民族自決運動が合併し、1415年にコンスタンツ公会議で異端判決を受けたフスが、異端者としての処刑方法であり「復活」を封じられる焚火刑を前に「真実は勝つ」と言い残したされる。以後のチェコ人の「モットー」4であるとされ、現在のプラハ大統領府旗に表現されているという。(むろんのこと、「真実は勝つ」というフスの遺言も、フス戦争が伝える「バラード」である。

 

2 ウィクリフとジョン=ボール

まとめてみると、 

 1 ジョン=ボールの「説法」・「遺言」は、農民反乱、反乱批判派双方からの「口頭伝承(物語)」におけるバラードである。ただし、反乱軍・鎮圧側の双方からにおいて、ジョン=ボールという「ウォークマン(貧しい説教者たち)の一人を通じて、ウィクリフの教説が「蜂起の論理」であったと伝えられたことには相違がない。

 2 ウィクリフの教説は、1381年オックスフォード大学での講義は停止(休講措置)となったが、この段階では異端審問ー大学追放ー禁固などの処分にはいたっていない、司祭の地位にはとどまっていた。1383年にウィクリフは脳溢血で急死するが、晩年を送ったラタワース教会の主任司祭dあって、説法・執筆活動は積極的に行っていて、制限を受けた形跡はない。従って、死亡するまでウィクリフは執筆・説法禁止といった司祭としての身分にかかわる処分や、移動や転居といった行動・身体についての制限も奪われたわけではなかった。

 

 3 ワットタイラーの乱(大学の講義制限)からコンスタンツ公会議(異端判決)までの約30年間、死後においてもウィクリフの著作、英語版聖書は弾圧の危機に晒されながらも、公刊(書写)され続けることが可能なわけであった。コンスタンツ公会議において異端判決を受け、遺体(遺骨)遺棄、著作の閲覧禁止、焼却処分を受けたが、一定量の公刊された写本が存在し、そのことが「逸文・断簡」化しながらも伝来することを可能にしたわけである。そして、16世紀に、イングランド宗教改革期」に、再編集し公刊された。

 4 善本としてのウィクリフの著作イングランドよりもボヘミア(チェコ語訳も含め)で発見されることがおおいという。この背景は、1415年コンスタンツ公会議において、ヤン=フスの教説ともに異端判決たが、フスの教説とウィクリフの教説に継承関係が存在し、そのことが証明されていて、イングランドからボヘミアへウィクリフの教説が著述とともに渡っていたことがわかっている。キリスト教史の概説を読むと、ウィクリフの著作の善本はボヘミアに伝来するということで、フス派の著述に引用されているということである。ただし、ウィクリフ、フスは異端判決を受けたため、やはり閲覧禁止・廃棄処分を受けたので、断簡・逸文(他人の著述での引用)が多く、刊本が発見される場合は「稀観本」であるという。

 

といった内容になる。

 

次に、アンソニー=ケニーの『ウィクリフ』木ノ脇悦郞訳 教文社)を参照して、伝承としての「アダムが耕し・・・」の問題を注記しておく。現在のイングランド中世史研究において、このコトバは、15世紀後半以降において、乱後100年前後において伝承された「バラード」であったと考えられ、実際にそのような史実は確認できないようである。説法の記録者(筆録者)の存在への疑念、史料批判に耐えることができないと判断されている。では、どのような質のバラードであるのかが気にかかる。、「アダムが耕し・・・」は定説化していたことが改めて理解できる。

そして、次に注意しておくべき点は、ワット=タイラー、ジョン=ボールは乱後に処刑され、その後に国王への反逆者、特にローマ教会に対しては異端者として扱われたわけであり、イングランド聖ドミニコ教会=ローマ教会への反逆・異端者として、教えを伝える文書・形見となりうる遺品の類いは徹底的に処分された。従って、史料の残存状況としては極めて悪く、16世紀にイングランド宗教改革(アングリカンチャーチ=イングランド聖公会)成立後に、ある程度の復権を見たの後の「伝承史料」として編纂されたか、あるいは、ワット=タイラーの乱を題材とした「物語」のなかでの「叙情詩(バラード)」のなかで常識化していったものと考えられてきている。

 

3 ジョン=ウィクリフからジョン=ボール、フスへ

ジョン=ボールの説法は、グリニッジ近郊の農村で行われたされている。師のジョン=ウィクリフの影響で、ボールは2年ほどオックスフォード大学神学部でその指導を受けたということになっている。ロラード派と呼ばれる聖ドミニコ教会(托鉢修道士会)を批判する司祭の一人であって、「貧しい説法者(ウォークマン)と呼ばれる司祭ー修道士会への強硬批判派で、ワット=タイラーもその一人と考えられている。次に、ウィクリフらの托鉢修道士会(聖ドミニコ教会)批判を、もう少し考えてみる。

東方キリスト教会では、ウィクリフが生きた14世紀においては自国語(すでに、チェコ語訳聖書がイングランドに伝来)の聖書の存在が認知されたいた。ところが、イングランドがその教権下にはいるローマ教皇・教会(ローマンカソリック)では、ラテン語以外の聖書は公認されたいなっかた。ところが、1370年よりウィクリフは、聖書の英訳を前提とする英語での聖書の注釈を中心とする講義をオックスフォード大学神学部で行った。(このことは、ウィクリフの生存中から死後にかけて、ウィクリフを異端審問しようとする聖ドミニコ会=托鉢修道士会の調書により判明)

そして、ワット=タイラーの乱の影響で、レスターシャ州ラタワースの主任司祭に就任し、大学を去り、そこで英語版聖書の翻訳と公刊(活版印刷以前であるから書写)を許可し普及につとめたという。ただし、コンスタンツ公会議の異端判決により、ラタワース教会の墓所破壊、著述・遺品の破棄諸部(焼却)されたといわれ、自筆本の伝来は否定的にみられ、ウィクリフ版聖書の写本の善本も時間が経過したもので原型はとどめていないということである。そのことにより、善本と考えらる古態、あるいは原本に近いと考えられるものは「断簡」に限定されたしまう。「断簡」あるいは同時代のローマ教会に批判的な神学者による引用(逸文)まで含め200本も存在しないことになっている。

ウィクリフ版英語「聖書」は、1950年代に、赤外線撮影技術導入や写真技術の向上により「断簡・逸文」分析がすすみ復元研究されたきた。そして、ロラード派に関する文献を概観すのには、ヘンリー=ベッテンソン『キリスト京文書集成』(1962年 聖書図書刊行会)がコンパクトで便利である。

 

ただし、ウィクリフ版「聖書」の日本語訳の完全翻訳はなく、引用あるいあは、一部の紹介(抄訳)のみであるという。英語版聖書の翻訳事業は、旧くは1401年にオックスフォードの神学者が提案したりしたが、実際には、17世紀にジョン=フォックスにより、ウィクリフ版「聖書」とその論文が編集・公刊されたから本格化したということである。ウィクリフ著述チェコ語により翻訳されたりした背景は、ボヘミアからアン王女が嫁ぎ、イングランド王妃となり、そこれを機会として、オックスフォードとプラハの大学(神学者)の交流が行われ、プラハ大学神学部教授であったフスも、こうした事情からウィクリフの仕事の影響を受け、ウィクリフはボヘミアにおける女国語聖書の存在を知ったと考えられている。次に、ウィクリフ版英語の「扉」のコトバの問題を考えたみたい。

 

4 大西洋を越えた「農民反乱の叙情詩」 ー英語聖書・伝ウィクリフ版、扉の「コトバ」ー

 

「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、だれが領主(ジェントリー)であったのか」というバラードは、17世紀にイングランドを船出しピューリタン(清教徒)の移民・宣教師ともに大西洋を越えて新大陸(北米植民地)にわたった。あらたな「バラード」を植民州=ニューイングランドの人々のココロとクチにのせていく。ウィクリフ版聖書の扉(献辞、あるいは刊記の一句)にあった伝えられる次の「コトバ」である。 

 

「この聖書は、人民の、人民による、人民のための統治(領主統治)・・・」 

This Bible is for the government of the people,by the people,and for the people.

この一文が「バラード」にすぎないことは、近代英語化していると指摘されたり、善本と考えられる断簡・逸文のなかに存在することを示す形跡が見当たらないことから、実在=史実にはないウィクリフの「コトバ」とするのが妥当であるらしい。つまり、バラード化した「物語」・「口頭伝承句」であり、民主主義の起源を辿る「定型句(フォーミュラ)であると位置づけられたいる。

そして重要なことは、このバラードの定型句が、リンカンの1863年「ゲティスバーグ演説」に引用され、大統領就任の宣誓式に聖書に手を置き誓約することの定形化であるとされたきた点である。先に引用した三省堂『世界史B』(222頁)は、

1860年の大統領選挙で共和党のリンカン当選がすると、奴隷州は連邦から脱退する動きを示し、翌1861年アメリカ連合を結成した。だが、リンカン大統領は南部の分離を認めないことを明覚にしたため、南北戦争が勃発した。連邦軍ははじめ苦戦を強いられたが、リンカンは北部の道義的立場を強化する意味をこめて、1863年奴隷解放宣言を公布した。戦局も、1863年のゲティスバーグの戦いで北部側が有利となったが、リンカンは激戦地を訪れ、民主主義を「人民の人民による人民のための政治」と定義し、戦争の意義を民主主義のための戦いであると強調した」

と記述している。

、「アダムが耕・・・」はジョン=ボール、「この聖書は、人民の・・・」はその師とされるジョン=ウィクリフ、また真実は勝つ」とヤン=フスが、それぞれ遺していった「バラード」は、欧米社会における人権思想、民主主義思想の源流として口頭伝承され伝えられたということはいえよう。その基礎にキリスト教信仰が存在することは間違いないことになる。