「正嘉の飢饉」と親鸞 ー乗信御房」宛書状の読書記ー

 

 

1 「地獄(飢えと病いと飢饉の屍骸)の風景」のなかの親鸞

 

 

 

疑問というのは、承元の法難の流刑や斬首の執行方法を考え、捕縛され、つながれた「獄舎」、検非違使といった刑吏、法然門下として自らが居住した東山大谷の隣接地である「鳥部野」(葬送地)をどのように考えたか・・・、生涯において対峙していくこととなる、「飢饉」(飢餓と病)に対する親鸞の発言と行動、といったものであった。

 

  とくに、法然とその門下が活動拠点とした東山大谷という空間の問題である。東山大谷の隣接地は、「鳥部野」・「六道の辻」といった京都における葬送地であった。また、鳥部野と洛中を隔てる鴨川の河原は、斬首された頸が晒されたり、あるいは、飢饉の際は被災死した人びとの屍骸が放棄されたという。つまり、東山の「鳥部野」から鴨川一帯は、中世都市京都の周縁にひろがる「地獄の風景」であった。

 

特に、私たちが考えなければならないのは、その「地獄の風景」の中で、親鸞の飢饉における餓死・疫疾死といった異常死のとらえ方、どのように「地獄の風景」の中にいて、向かいあったのか、また、どのような発言・行動をとったのかが問題にしなければならないと考えた。飢饉史に合わせて親鸞の生涯を考えるといった課題が気になり始めた。

 

治承・寿永の飢饉(1180-1185年)=源平の内乱を契機とする国土の戦場化と流通機能障害が発生し消費生活を行う都市部での食料不足が生じた。つまり、政治がうんだ飢餓状況へ、天候不順と地震といいた自然災害が加わって、列島社会の人工が減少するほどの未曾有の大飢饉となった。

 

で損亡・不作が飢饉をうんだ。1216(建保6)年は大雨・洪水による耕地の荒廃による不作、1229(寛喜2)ー貞永元(1233)年は冷夏(冷害)による不作が原因による飢饉、と続き、特に、治承・寿永(養和も含む)の飢饉、寛喜の飢饉、正嘉の飢饉は規模が全国的であったと言われている。、かつ生産機能が維持できないほどで、荘園村落から逃亡して「棄民」となる農民が続出し、冷害による不作とともに放棄され、荒廃した農地の拡大が被害を拡大し、ついには数年間にわたる「大飢饉」となった。

 

  親鸞は、治承・寿永の飢饉は、叡山の顕密僧として、青少年期にむかえた。建仁の飢饉は、法然門下の専修念仏僧として、家族を帯同してむかえた。建保の飢饉、寛喜の飢饉は、東国で念仏勧進聖としてむかえ、家族と門弟からなる一団を形成しだしていた時期である。健保・寛喜の飢饉と親鸞については、これまでの研究史も論議してきたところである。(今回の原稿も、ようやく帰洛した親鸞までたどりついている。)

 

さて、以前に「正嘉の飢饉」と親鸞、を執筆しかけて、脇道といよりは登山する対象を見定め損なったと思い始めたのが、日蓮の「立正安国論」である。『立正安国論』の執筆動機は「正嘉の飢饉」に対する日蓮の提言で、得宗(執権)時頼に献じたものである。その冒頭には近年より近日に至るまで、天変地妖、飢饉疫癘遍く天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり」と鎌倉の状況へ憤慨する。このあとの日蓮の論議は置くことにするが、随分に温度差を親鸞との間に感ずることはいうまでもない。また、1214(建保4)年に飢饉を予想した幕府は、鎌倉に移っていた栄西(葉上僧正)に国家祈祷を依頼したことが『吾妻鏡』にでてくることも併せて考えなければなるまい

 

 

 

 

 

. 「正嘉の飢饉」と親鸞

 

 とりあえず、関連する「書状」の要約を、私見を明らかにする形でまとめておく。。

 

① なにごとにつけとも、去年から今年に懸けての老少・男女の人びとが、飢餓と疾疫(飢饉)により、次々と死んでいく事態が生じていて、大変なことになっていることと承知しています。

 

② 私たち、生死・無常ということについて釈迦牟尼仏の説き起こされた法理・教えを聞いていたはずなのです。ところが、この期に及んで、改めて心に刻み直さなければならないということを承知いたしました。ということの真実・真理は、私のことでいえば、善信(親鸞)においては、臨終ということ、生き様。・死に様(死に方・生き方・これまでの生活そのもの)が、どにょうな内実(かたち・形態・有り様)であったとしても、そのことについての論議が、私たちの信心については、全く意味のないことであると、承知してきているはずです。なぜならば、阿弥陀如来の本願(第十八願)を信じて生きるという本願念仏においては、私たちが命あるいま(生きている私が)、現世の私たちの姿そののが」「正定聚」(「現生正成聚不退転位」)に定まって、そのままに生き、この世を大切と思いめぐらして生きてきているはずだからです。このように考えておれば、私の自身の本質、本来の姿が「愚痴・無智」ではありながら、生き様・死に様、とくに命・生命の終わりに当たって、阿弥陀如来より、私たちの「いのち(生命・生き方・死に方・・・)」そのものが「めでたきこと」(尊いいのち)であったと、仏(阿弥陀様の世界・往生浄土)へとむかえ。お招きいただけるのです。

 

 ③ 真実・真理を知り気がつくことができない「愚痴・無智」の私たちこそが、まことに阿弥陀如来の救いに預かり、「往生浄土」の素懐をとげることが、私の師である故法然聖人の「講説・説法・法語」で確かに聴聞し、後に「一枚起請文」という法語・聞き書きにもお示しくださって大切な教えです。「浄土宗の人は愚者になりて往生す」というお言葉です。このようなことですから、いまだに人の死に様・生き様が、良きで死であるといいいたり、良い生き方であったと評価したりして、命が終わった(すでに命尽きた死者と、これから死に行く私たちまで含んだ生き行く人)人びと」の死に様・生き様により往生浄土・成仏の可否を論議すること自体が、あってはならないことなのです。特に、現在、現実に引き起こされている飢饉による異常死(飢えと疫病による餓死・病死)、あるいは、貧困・飢餓と病による「惨状」を視て、人びとの往生の可否を「うんぬん」するようなことがあってはならないのですそのような、お念仏の立場を。許し放置するすことは、どのような理由からもできないでしょう。すくなくとも、飢饉による異常死について、とやかく議論・言うこと自体が、死者をないがしろにする許すことのできない事態です。

 

私のところに、「飢饉に苦しむ」人びとの様子を御伝えくださることは、とても大事な尊いたより(情報)で、皆様の日暮らしを知ることができ大切です。ところが、そのことと、往生浄土の可否ついて、死に様や生き様より尋ねられるこということは、もっともの愚問というよりは、何も判ってはいない「物知り顔」の困った人たちなのです。どのように返事をしたらよいのか困っている次第です。返事に窮するということは、なのも判ったいないのに、念仏を領解していると勘違いしている人に、生半可な「返答」をするのならば、そのことで、自分が判っている勘違いされたしまうから、返事もできない、ということです。たとえば、伝えられた情報と、質問に中途半端に答えれば、「したり顔」で人びとに「往生は治定すべし」と死に様から、往生浄土について「お説教」するに違いないからです。ですから、私(善信・親鸞)が、決して、みなさまに「往生は治定すべし」というような返簡(返事)しないのは、そのようなこと(理由)からです。 

 

④ それにつきても、心外であり、かつガッカリしているのは、「物知り顔で人の生き様・死に様をうんぬん」している人びとの言動に困惑・振り回される念仏同行が少なからず存在することです。しかも、動揺して、私に、そのことを大切な時間と費用をついやして尋ねてきていることも残念です。どのようにしても、「さかしき人びと」言動に惑わされることなく、「ご信心」に揺るぎないことを確かめることができたのならば、皆様とともに往生浄土の素懐の場面(往相)に出会うことができます。しかしながら、「さかしき人びと」に翻弄され、惑わされ「すかされて」、自身の「御信心」を疑うことです。いわば信心が定まらぬ人びtは「正定聚の位」に従しているといえないことになってしますます。すなわち、こころがフワフワと動揺・混乱し、「不安」の境地・「不安とたたかう」生き方、「不安・疑心」に暮らすことを、本当に、どのように表現したらと、「こころ」が想いやられる次第であることになります。

 

⑤ このことにちては、私のいいたいことは尽きません。もともと、この手紙を認めなければならない事情は、お知らせと質問を送っていただいた乗信房がご存じのところです。ですから、この手紙の趣旨については、乗信房からも、御仲間の皆様に、詳細にきちんとご説明くださいよろしくお願いいたします。1260(文応元年一〇月一三日)に八八歳をむかえている善信(善信房親鸞?)がお便りします。