仏教と人間(2003年 筑紫女学園短期大学 講義ノート)

 

(これに資料編が貼付)

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12講  恵信尼文書からみた親鸞 

 

問題の所在

 

 1 「恵信尼書状」の概要

 

 親鸞の妻・恵信尼が残した史料 ◎本願寺派本山に伝来=1922年発見
     「書状」10通
    「譲状」2通
    「消息」8通=親鸞の往生に関わる往来 4通
 
   一般の消息 4通
  平仮名「無量寿経」(断簡)

 

 2 「恵信尼書状」の史料的価値
  親鸞研究史料=六角堂夢告・三部経読誦・信蓮房、覚信尼誕生等
   ◎主に自らの行実を記録しなかった親鸞の伝記史料として
  中世女性史料=従来の真宗史研究では軽視されていた論点
   A 「譲状」=在家尼の所領経営
   B 「消息」=女性から見た仏教(僧)=親鸞伝の逆読み

 

 3 肉食夫帯の尼 ー「坊守」の嚆矢ー

 

 三部経読誦、境郷での夢がから描きだされる親鸞集団⇒ 東国を家族連れで移動する念仏勧進する「聖」集団 (念仏キャラバン隊 高取 正
男、善光寺聖集団の一員 平松令三 一遍聖絵の「暮露」との共通 五来 重)
 境郷でみた恵信尼の夢⇒ 堂供養、念仏勧進の様子?

 

 4 女性生活史
  A
 後世への祈り・支度
   ◎中世女性と仏教という視点での読み直し
 B 中世女性と仏教からのアプロ?
  西口順子「『恵信尼書状』私論」(京都女子大『史窓』=48 1991年 )
  J.Dobbins“Letter of Nun?Essinni”  (“Collombia University,Workshop:OnWomen And Buddism In PreーModern Japan”
1989,New?York)

 

 5 在家尼の所領経営

 

 A 恵信尼の譲与した「下人」
  ◎大人子供(男女)を合わせて8人(建長8.7.9「譲状」、9.15「譲状」)
   袈裟(女36歳)=娘名記載なし(16歳=わかば?21歳で出産 ) 娘名記  載なし(9歳 文永5年5月以前死亡)
   いぬわう(3歳 但し、所有は男親の下人)
   ままつれ(女 歳記載なし)娘いぬまさ(12歳) 弟(7歳)ことり(女 34歳)七つになる女童(養親 所有者不明)
   あんどうじ(男 歳記載なし)
  ◎「譲状」の宛所
   「端裏書」=「わかさとの申させ給へ(宛所)ちくせん(発給)(2通とも)
   「わかさとの」=若狭殿、覚信尼の侍女(取次)か?  
   =「ちくせん」 筑前、恵信尼の仮名か?
   9月15日付「譲状」本紙=「わうこせん」=覚信尼の仮名か?
  
   「ゑしん」(花押)=法名
  B 「譲状」の対象
  ◎ 「ゑしん」(恵信尼)が「わうこせん」(覚信尼)へ
  ◎ 所有する下人と収穫後の得分
  C 恵信尼の所有権
   女子分相続か?=中世前期社会では、女性の親からの得分は、庶子なみで「器量」(奉公の浅深) によって配分されるので、やや少なめにな
る場合が多く、財主の意志が強く反映される。
  一期分相続の動きへの対応=鎌倉期の女性相続権が一期(一生)分と限定されていく傾向=信蓮房(男子)を連れ帰国したことの意味
  =覚信尼も女子分相続か?=下人と得分譲与=「譲状」は下人のみで家屋・田畑はない
  家屋・田畑は=信蓮房らの男子か?※小黒の女房の遺子(男子・女子) の得分は? ※益方の得分は?
 C経営形態
  ◎ 「とひたのまき」、「くりさわ」に複数の所領をもったか?
   =栗沢に居す信蓮房の存在 ◎栗沢への所領の暗示
   =覚信尼へ譲与した「下人」のほかに下人を所有する形跡
 
犬王の父の下人 三郎太(入道して西信)……
   =複数の名田を経営か?
  =嫡子の所有する領域に抱えられ庇護された名田経営か? ◎中世村落女性領主の一般例から考えて
  =覚信尼が一期分相続の後 ◎信蓮房ら男系に所有権が移転
   =7通10通に下人の動向が伝えられたのは譲った後の所有者覚信尼への報告か
   =得分は、為替で送付か ◎「ゑもん入道のたより」「巫女のおいとかやと申すものゝひん(便)

 

5 覚信尼への教誨?親鸞の往生への確信?

 

 ◎ 覚信尼の疑義=親鸞の往生への疑問を書状で質したか?
  「書状」(第3通)=「されば御臨終は如何にもわたらせ給へ、疑ひ思まいらせぬうえ…」
 ◎ 恵信尼の教誨常陸国境郷で見た夢から親鸞の<往生>を確信
  = 堂供養のために御堂前の鳥居に絵像を掛けた
  = すると、一体の仏が姿が見えない位に光明を放って現れた
  = もう一体が現れて顔がみえたので何仏かと思い見上げると法然上人が勢至菩薩となって示現したのであった
  = そのうちもう一体の仏が示現したが観音菩薩であり殿(親鸞)の 顔であった
  = 不思議な夢であったが、誰にも話さずに心の中にしまった
  = 後になって、殿には法然上人が勢至菩薩となって夢に現れた件のみ話した
  = 殿は、法然上人が勢至菩薩になって夢に現れることはよくある正夢だといっていた
  = ゆえに、殿が観音の化身であるという夢も正夢に違いない
  = だから殿の往生はいうまでもないことではあるが間違いない
 ◎ この教誨により覚信尼の疑義は晴れたのか、大谷の廟所建立への
 中心的役割を担ったことはいうまでもない

 

6 自身の往生への確信〓覚信尼へ家族との浄土での再会を楽しみと伝える

 

  第4通=「今年は82になり候也、一昨年の霜月より去歳の五月まではいまやヘと時日をまち候しかども、今日までは死なで…」
  第10通=「我が身は極楽へ只今に参り候はんずれ、何事も暗からずみそなはし参らすべく候へば、構えて御念仏申させ給て、極楽へ参  りあ
わせ給べし、なほへ極楽へ参りあひまひらせ候はんずれば、何 事も暗からず候はんずれ…」

 

7 恵信尼の生活

 

 在家尼・後家尼として所領経営に当たる(=在家尼の所領経営)
 A 恵信尼の衣装
 第9・10通⇒小袖を覚信尼から送られたことを書きしるす。しかも 「黄泉小袖」は綾小袖とある。=法体はとらなかった可能性大?
 B 晩年の関心事
  小黒の女房の遺児、益方が子供の養育
 第3通=親鸞の往生を知り覚信尼への所感として
  「世間を心苦しく思べきに候はねども、身一人にて候はねば、これら  が、あるいは親も候はぬ小黒の女房の女子・男子、これに候うへ、益方が
子供も、ただこれにこそ候へば何となく母めきたるやうにてこそ  候へ」
 C 京にいる覚信尼の子女の音信
 第8通=「おとご」の成長を申し受けたい(知らせて欲しい) と書く
 第9通=「よろづ公達の事ども、皆受け給りたく候也、尽くし難くとて 止め候」
 第10通=「又公達の事、よにゆかしく、受け給りたく候也、上の公 達の御事も、よにうけ給りたく覚え候、あはれこの世にて、今一度見まいらせ、
又、見まいらする事候べき…」
 
  =光寿御前(覚恵)の修行に下るべきとかや仰せられて候し  かどこれへはみへられず
 
  =「若狭殿(覚信尼侍女) の今はおとなしく年寄りておはし候らんと、よにゆかしくこそ覚へ候へ」
 
  =何よりもへ公達の御事、細かに仰せ候へ、うけたまはり
 
  たく候也、一昨年やらん生まれておはしまし候(唯善 )けると 受け給はり候しは、ゆかしく思まいらせ候」
 
  =なほへ公達の御事、細かに仰せ給ぬ、承け給はり候て慰み候べく候、万尽くしがたく候て止め候ぬ、又、宰相殿(覚信尼の娘光玉?)、いまだ
姫君にておはしまし候やらん…」
 D 身の回り品の送付
 第10通「針少し賜び候へ、この便にても候へ、御文の中に入れて賜 び…」
 E 「日記」をつける
 第6通=「病せ給て候し事、書き記して文の中に入れて候に、その時の 日記には、四月の十一日の暁…」
 ◎日記をつけ親鸞の教示・法語などは別に聞き書きしていたか。

 

8 後世への支度?恵信尼の信心?

 

  A 夫親鸞から聞いたこと
 
  第3通=「六角堂参籠と夢告」
 
  「比叡の堂僧」(自力の念仏否定か?)
 
  第5通=「自信教人信」(三部経読誦を通じて)
  B 親鸞と体験したこと
 
  第3通=堂供養=家族連れの念仏聖としての活動か?
 
  第5.6通=三部経読誦とそれへの後年の反省
  c 自らの体験
 
  第3通=常陸国境郷における<夢告>(覚信尼への教誨)
  ◎ 「無量寿経」を音読みで書写
 
  現西本願寺所蔵=「又講堂精舎宮殿楼観?皆七宝荘厳自然化成」の間
  D 後世への準備   第7、8通=卒塔婆として五重の石塔(7尺)を建立
 
 (生前における逆修のつもりか?)
 
  第9、10通=黄泉小袖の準備(死装束)
 
  第10通=「尼が臨終候なん後は栗沢に申しおき候はんずれ ば参れと仰せ候べし」(葬送・後の事は栗沢信蓮房にたのんで  ある。)

 

 問題の展望

 

  ◎ 恵信尼の信仰像の再構成する必要あり?
  ◎ 35願の関わりは?
  「よにゆかしくこそ覚え候へ、かまえて念仏申て、極楽へ参りあはせ給へと候へし」=極楽で家族との再会を希望=女身のままで往生
  を希望か  

 

11講 親鸞と東国門徒 -晩年の親鸞と門流の形成(2)ー

1 荒木門徒から仏光寺

 「坊守縁起」・「絵系図」

 源海

2 高田門徒

 善光寺式本尊(一光三尊仏)・真仏報恩塔

 真仏と顕智

3 横曽根門徒
 



10講  親鸞の宗教運動と中世社会 -宗派形成の歴史的前提ー

問題の所在 ―尼寺のない宗派の形成―

 虎関師錬 『元亨釈書
 ⇒ 日本仏教史を「高僧伝」ではなく「釈書」(仏家伝)として企図
   ⇒ 中国の「高僧伝」を想定・対応したものか?
※ 僧・尼では在俗の仏家に注目=日本仏教史の特色として意識か?

 在家仏教を中心に描く背景
□ 僧の<イエ>志向
□ 無戎名字の比丘・比丘尼=末世の沙門のありよう 伝最澄『末法灯明記』

2 宗教的天蓋としての「聖徳太子」 ?「女犯偈」から「皇太子聖徳奉讃」までー

1201年(二十九歳)「女犯偈」(行者宿報偈)
      「親鸞夢記(云)」

 

 125511月(八十三歳) 「皇太子聖徳奉讃」七五首

1257年(八十五歳)
2月 「弥陀の本願信ずべし…」と夢告
2
月「大日本栗散王聖徳太子奉讃」百十四首
    5月「上宮太子御記」

12586月(八十六歳)
 「尊号真像銘文」
9
月「正像末和讃」のうち「皇太子聖徳奉讃」十一首

年未詳 「廟窟偈」
   
□ 「廟窟偈」=「文末子伝」と「聖徳太子和讃」群
□ 生涯を通じての聖徳太子讃仰の意味
覚如本「聖徳奉讃」〈七五首〉
3
晩年の親鸞 ?覚信尼の動向と本願寺形成の必然―

 

□ 先祖帰りする親鸞
□ 恵信尼文書からみた覚信尼
□ 僧の<イエ>としての覚信尼
4
問題の展望
□ 王党派的親鸞
 ー天台へ先祖帰りする親鸞

 

□ 肉食夫帯の尼としての覚信尼の活動

 

 ー日野一流の名告りと本願寺の成立―

 



9講 親鸞の宗教運動(2) -帰洛と著述活動ー  (別項目にる見込みなので、削除)

 

1 「教行信証」の著述

 

2 門弟との「往来」

 

3 銘文と文類 

 

4 法語とその編集

 

5 和讃の制作 三帖和讃・聖徳太子和讃

 

6 本尊の制作の監修

 


第8講 親鸞の宗教運動(1) -越後から東国への遍

 東国門徒 宗祖伝を結婚説話=「坊守縁起」として構成

<例20 「親鸞上人御因縁>

  結婚説話の話材を「女犯偈」にとる=玉日を坊守の嚆矢とする

親鸞と玉日夫妻を教団形成の宗教的環鎖の基本とする⇒ 親鸞没後、数十年後の教団開創伝承

         親鸞教団を家族連れの宗教者として位置づけ、そこから活動の実態を探って行く点である

         善光寺聖の活動のなかに親鸞を読み込む必要性⇒ 家族連れの宗教者としての親鸞 

         越後から信濃を経て関東へと移動する際に、善光寺聖として活動した

         高田門徒には善光寺聖としての活動を示す痕跡が色濃く残されているとされる

◎ 家族連れの宗教者としての親鸞集団

一遍聖絵」の「暮露」を家族連れの宗教者⇒ 暮露は、赤ん坊を抱く女性と、名号を括りつけた笠物を持つ

<例21 甲斐等々力万福寺旧蔵「親鸞聖人伝絵」(六幅本)>

第3幅「越後配所の段」、第4幅「稲田草庵の段」に親鸞の近くにいる尼姿の女性の存在

絵伝を製作した甲斐門徒は荒木系〓従来の親鸞研究においても親鸞集団の聖的性格は強調されてきた

<例22「三河念仏相承日記」 「顕智ヒジリ」⇒ 高田門徒の性格>

<例23 親鸞筆「十字名号」・「八字名号」「六字名号」>

専信・顕智らが三河薬師寺を経て上洛した際に与えられた名号(『三河念仏相承日記』との関連性)

上洛時門弟に同じ「名号」が何幅か作られた(現存4幅)⇒ 移動可能なポ-タブル名号の可能性

<例24 高田派妙源寺蔵真仏賛銘「光明本尊」>

         真仏、親鸞より先に死去〓「光明本尊」製作への親鸞の関与

三幅一対の「光明本尊」〓移動して絵解する使用方法を暗示

<例25 『恵信尼書状』★三部経読誦事件>

善光寺聖ゆえの活動として理解

<例26 『恵信尼書状』の伝える恵信尼のみた夢>

善光寺聖として廻国中における親鸞たちの活動?〓しかも恵信尼は、違和感がない

       親鸞集団の活動形態

<例27「三河念仏相承日記」矢作薬師寺(堂)=北野廃寺跡での念仏勧進>

どのような念仏の勧め方たをしたのか〓恵信尼の夢<堂供養>との関連

 やすらい祭り(京都市、今宮神社周辺〓毎年4月10日前後)=笠の下が一種の聖域になっている

笠を簡便で臨時的宗教施設の象徴として理解⇒ ポ-タブル名号、三幅一対の「光明本尊」の使用方法

 移動する念仏集団の布教の簡便な宗教施設(結界)⇒ 各地の小さな寺社の軒先を借り活動したことが推測される


 

第7講 親鸞の宗教的地平(3) -流罪と親鸞の宗教運動の展開ー

建永の念仏禁制

<例16 『愚管抄』・『法然上人行状絵伝』>

顕密仏教側からの専修念仏批判⇒ 念仏一門への偏執が八宗体制を都滅させる=王法・仏法相依体制の弛緩=玉体安穏・現世安穏の崩壊の危機

念仏禁制への経過(公家の日記から復元)

<例17 『三長記』・『明月記』・『平戸記』による事実経過の記録>

 比叡山大衆の「訴状」の提出 ◎ 未伝来なので内容は未詳、ただし「七箇条起請」から類推は可能

 「七箇条起請」の提出

 法然から「陳状」(怠状)の提出 (内容は未詳)

 八宗同心前代未聞という触れ込みの「興福寺奏状」提出

  処分に尻込みする公家 ※ 『三長記』 蔵人頭三条長兼の苦悩

 後鳥羽院女房衆との「密通」事件  ※ 相応する法規は「御成敗式目」(密懐法)程度か?

<例18 『明月記』藤原定家の見た念仏弾圧事件>

 承元元年2月 安楽・住蓮・善綽・性願4名死罪、法然(土佐)・親鸞(越後)らの流罪

 処分されない教団幹部 ※ 証空・聖覚・弁長・幸西らの処遇(証空・幸西は慈円の預かり)

 

<例 19>

後鳥羽院の後世、法然聖人他力本願念仏宗を興行す。時に興福寺僧侶敵奏の上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実の風聞によりて罪科に処せ らるゝ人数の事。

   一  法然聖人ならびに御弟子七人流罪。また、御弟子四人死罪におこなはるゝなり。藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。

    親鸞越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五なり。

    浄聞房備後国、澄西房伯耆国/好覚房伊豆国、行空本房佐渡国

  幸西成覚房・善恵房二人、同遠流にさだまる。しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあづかると云々。

  遠流の人々、已上八人なりと云々。

  死罪に行はるゝ人々

  一番  西意善綽房 /二番 性願房 /三番 住蓮房 ・四番 安楽房

  二位法印尊長の沙汰なり。

   親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よつて僧にあらず俗にあらず、然る間、禿の字をもつて姓と為して、奏聞を経られ了んぬ。彼の御申し状、今に外記庁に納まると云々。流罪以後、愚禿親鸞と書かしめたまふなり。(『歎異抄』後序)

②ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は今盛りなり。しかるに諸寺の釈門教に昏くして、真仮の門戸を知らず。洛都の儒林行に迷いして、邪正の道路を弁えることなし。これをもって、興福寺の学徒、太上天皇号後後鳥羽院諱尊成 、

今上号土御門諱為仁 聖暦承元丁卯歳、仲春上旬の候。主上臣下法に背き義に違う、忿をなし怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数の輩、罪科を考えずみだりがわしく死罪に座す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す、予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず、このゆえ に禿の字をもって姓となす。空師ならびに弟子ら、諸方の辺州につみして、五年の居諸を経たりき。皇帝佐渡院諱守成聖代建暦辛未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて入洛して已後、洛陽の東山の東の西の麓、鳥部野の北の辺り、大谷に同じき二年壬申寅月の下旬五日、午時入滅したまう。奇瑞称計すべからず。別伝にみえたり。(『教行信証』化身土巻)
 


6講 親鸞の宗教的地平(2) -法然門下への弾圧と親鸞の宗教運動ー専修念仏の興隆=顕密の修法の衰退⇒ 王法の仏法による輔弼体制(顕密体制)の危機
 専修念仏の何が「顕密体制」(八宗体制)にとって問題であったのか 

    「興福寺奏状」=八宗同心の専修念仏禁制要求とは何か

 

<例13 『興福寺奏状』の主張・顕密体制からみた専修念仏>

◎ 第六に浄土に暗き失(中略)しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛行 逝く許すところなり、

◎ 第七に念仏を誤る失(中略)ここに専修、かくのごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「これ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八願なりと、なんぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以って本願と号せんや

◎ 第九に国土を乱る失、仏法・王法猶し身心のごとし、たがいにその安否を見、宜しくかの盛衰をしるべし、当時浄土の法門始めて興り、専修の要行尤も盛んなり、王化中興の時というべきか、ただし、三学已に廃し、八宗まさに滅せんとす、天下の理乱、亦復如何、

   解脱房貞慶 法然門下の「悪人往生」理解批判⇒ 決して、「悪人正機」説は専修念仏のみが主張したわけではない

        「地蔵講式」 地蔵菩薩による「悪人救済」論を展開

         『愚名発心集』における「悪人意識」

   栂尾明恵房高弁 法然の「菩提心」否定論を論破

       ※ 「摧邪輪」 菩提心は仏教における救済の必須条件で、「如来蔵」は万人が有すると主張

<例14 『摧邪輪』における「菩提心論」>

問ひて曰く、我、弥陀の本願の中に菩提心なしといふは、所化の衆生、往生浄土の業の中に、菩提心を以って正因とせずと言ふなり、弥陀如来の因位において、自ら菩提心ないと謂ふことにはあらず、何ぞこの嘖を致すや。

   後鳥羽上皇の後宮の乱倫問題 -安楽・住蓮ら専修念仏僧の関与ー

   慈円愚管抄』における法然批判⇒ 狐・狸・天狗(憑物)の一種として叙述  ※ 王権に取り付く「つき物」として法然=専修念仏を評価

<例15 慈円愚管抄』における法然>

 又建永の年、法然房と云う上人ありき、まぢかく京中をすみかにて、念仏宗を立て専宗念仏と号して、「ただ阿弥陀仏とばかり申すべき也、それならぬこと、顕密のつとめはなせと云事を云いだし、不可思議の愚癡無智の尼入道によろこばれ、この事のただ繁盛に世にはんじょうして

 


 

5講 親鸞の宗教的地平 -法然から継承したものー

 

議論の前提として(親鸞著述における法然の著述

 

    意外に少ない著述への引用 ※ なぜ「選択集」を引用したがらないのか?

 

  「選択集」の解説書である聖覚「唯信抄」を門弟にはすすめる
 
  明恵「摧邪輪」(於一向専修摧邪輪」)における法然批判 ◎論理的には明恵の勝ちといえる(ただし、法然没後)

         ⇒ 菩提心=仏性が存在しない人間が往生可能ということは、逆に「仏性=如来蔵」の証明となる

 

 13世紀前半日本仏教界における「仏性」論争⇒ 法然・明恵・道元

 

      ◎ 道元『正法眼蔵』における主張 人間存在を「如来蔵」そのものとみる

 

        禅の実践(修行)は、徹底した「如来蔵(仏性)」開発を根拠とする

 

      ◎ 法然門下⇒ 唱導(口頭伝承文芸)の世界で「悪人往生」を宣布

 

       『延慶本 平家物語』における平重衡の往生⇒ 東大寺大仏殿を焼き討ちした「極悪人」の往生を説く
   
                                ⇒ 赤松俊秀=慈円愚管抄』における法然評価

 

    『教行信証』の執筆動機⇒ 明恵の「仏性」論への反批判 ※ 菩提心論の組換え

 

      ◎ 浄土教的「仏性論」の確立を企図か? 「無明」

 

   <例10> 『教行信証』における「仏性」否定

 

       ◎ 「信巻」逆誹摂取釈 「涅槃経」の引用から阿闍世の救済  ※ 「観無量寿経」の韋堤希の救済との温度差?

 


     <例11> 『正像末和讃』の書き換え

 

      ◎ 『延慶本 平家物語』との継承関係
 
      「清水寺炎上」が持つ、仏性(如来蔵)思想を問題にしたのか?

 

      1257年(正嘉元年 85歳)草稿本「正像末和讃

 

      「罪業モトヨリ所有ナシ 妄想顛倒ヨリオコル 心性ミナモトキヨケレハ 衆生スナハチ仏ナリ」
      
      1258年(正嘉2年 86歳 顕智書写本「正像末和讃

 

      「罪業モトヨリカタチナシ 妄想顛倒ノナセルナリ 心性モトヨリキヨケレト コノ世ハマコトノヒトソナキ」    

 


 

第4講 浄土教の社会運動 ー「選択本願」とは何かー

 

 末法説と仏教徒(三時説=正法・像法・末法) ※ 三時説と『末法灯明記』の主張

 



 

    末法という時機を前提とした「救済」のあり方を模索 ※ 九品往生義のおける「下品下生(称名念仏)」の積極的評価

 

   <例7  『選択本願念仏集』における選択・取捨の主張>

 

        「この中の選択というは、すなわちこの取捨の義なり」(『真宗聖教全書』1巻 P941)

 

   浄土において(成仏)の後は、人間は「三悪趣=流転=輪廻」を離れるとする。

 

   天台本学論的な「浄土」理解(地獄は地獄ながら、餓鬼は餓鬼ながら、仏界は仏界ながら…)を否定

 

  如来蔵思想の否定を前提とした「救済」論

 

   「悪人正機」の意味  ※ 善導「観経疏」 釈尊仏教へ回帰した部分

 

   <例8 『選択本願念仏集』における「菩提心」否定=菩提心を捨て、念仏を選び取る>

 

    「すなわち今前の布施・持戒乃至孝養父母等の諸行を選び捨て、ゆえに専らその国の仏名を称して往生の行と為るの土有り。(『全書』1、P942)

 

     ◎ 人間の本質を「悪性=無仏性」と定義 浄土教的平等論に展開

 

   <例9 『選択本願念仏集』における聖道門を捨て、「二種深信」を選び取る宣言>

 

    「次に深信とは、いわく深信の心なり。知るまさに、生死の家には疑を以って所止となし、涅槃の城には信をもって能入となす。ゆえにいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するなり。またこの中に一
切の別解・別行・異学・異見等というは、これ聖道門の別解・学見を指すなり。」(『全書』1、967)

 

     ◎ 聖道門を「群賊悪獣」とし選び捨て、「二種深信」を選びとる次元の選択

 

   「大無量寿経」第一八願の発見 ※ 「選択本願念仏集」の世界仏教史における位置

 

<例10> 『大無量寿経』第一八願

 

 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚 を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『全書』1、P8

 

  

 

     人間の救済はすべての宗教が主張するが、救済のあり方への方法論に差が問題となる 

 


 

第3講 法然が対峙したもの ー「天台本覚」論と浄土教 

 

        仏教的社会有機体説=天台本学論は、中世社会においては「輪廻転生」の結果が、現世における身分・階級となって現れる(仏性の現世的ありよう)と人々に意識させる

 

現世の身分⇒ 仏意に叶った「私の仏性」のありよう=身分・階級は私に与えられた仏からの「因果にようる応報」(自因自果)

 

来世の保障⇒ 現世における「仏性の開発」の次第=身分(職分)をまっとうすることにより来世における「成仏」が保障

 

<例5>顕密寺院の「非人」支配

 

   顕密寺院の暴力装置としての「犬神人」 「犬神人」(被差別民)として生まれたことを前世の業縁と説明

 

   現世における仏性の開発として穢れ(被差別民として生ずること)に対して「キヨメ」を求める(来世での救済)

 

   異端寺院(新仏教勢力)への暴行⇒ 顕密の「正法」へ付着した「穢れ」に対する「キヨメ」

 

        「清水寺参詣曼荼羅」(OR 大和絵「義経千本桜」) 武蔵坊弁慶源義経の「お話し」の背景

 

  ◎ 「天台本覚」論への疑義=「如来蔵」思想批判  ※ 唐 善導「観経疏」の再評価

 

  法然の如来蔵思想(日本天台的「仏性」理解)の批判・否定

 

<例6>浄土教による三時説の主体的受容 

 

   日本における仏教の時機を像法・末法と策定  ※ 最澄『末法灯明記』 無戎・名字の比丘・比丘尼を時機相応の仏法と主張

 

   聖徳太子が日本仏教の祖とされる必然  ※ 仏教伝来の際にすでに像法、在俗の聖徳太子を「和国の教主」

 

 

 

   虎関師錬『元亨釈書 ※ 中国の高僧伝を意識し、日本の仏弟子伝を高僧伝とせず「在俗者」を多数取材⇒ 禅においても、日本は「像法・末法」を前提とした時空

 


 

第2講 中世社会の宗教社会構造 ー浄土教が対峙したものー)

 

  日本中世の体制思想⇒ 「顕密仏教」=天台本学思想を基本とした体制肯定思想

 

  「一切衆生悉有仏性、草木国土悉皆成仏」論の社会的展開 ※ 「仏性説」の日本的変容=社会と自然の未分離

 

  「一切衆生悉有仏性」⇒ すべての「有情」の救いをとくのは「仏教」の一大原則(説き方に差はあるが人間の救済を説かない宗教などありえない=宗教として当たり前)

 

  「草木国土悉皆成仏」⇒ 環境(自然)の大切さを説くことと、社会存在(国家・身分・階級)という人間の行動から生じた結果を混同し、いずれも「仏意」の結果とする  ※ 現実肯定の自然・社会観 

 

   この世の成り立ちを「仏意」の結果として説くことの犯罪性⇒ 身分・階級から生ずる差別も「仏意」の結果として主張、すべてを仏の計らい=仏による現実の下賜とみる

 

  <例3> 仏性論と社会有機体説
  
  「現世安穏・後生安楽」(現当二世の安楽)の信仰

 

  生きているとき(現世)は身体の安穏を祈り、死んだ後(来世)は霊魂の成仏を願う

 

  <例4> 王法仏法相依・相即とは 
     
   慈円の主張(『愚管抄』)

 

  天皇のマギー(祭儀)化 天台座主は「玉体安穏」を維持する「護持僧」 ※ 「王法仏法相依」論として展開

 

  殺生禁断⇒ 荘園領主の領域支配イデオロギー ※ 神仏習合思想が背景 
  
  <例5> 本地垂迹論(神仏習合思想)とは

 

  インドの仏・菩薩は、日本の神々

 

  「阿弥陀仏=熊野権現」といったように仏を日本(本地)の神に充てこめ、神仏の一体を説く

 


 

1講 「本講」のめざすところ 

 


 仏教といった場合、思いつくのは、仏陀の説法を記録した「経」や規則である「律」、「経」や「律」への注釈書(論章疏)といった「教理(原理・原則)を想像する。

 

本講義で「仏教」といった場合、教理(原理・原則)のみではなく、仏教を社会運動として理解する。

 

 つまり、教理に従って仏教徒として自覚を持つ人々が行った社会運動(宗教運動)としての「仏教」を視野にいれる。

 

 ここでは、親鸞という人物が行った浄土教の教理に基づく中世日本における社会運動に注目する

 


 
 ※ 宗教が歴史上に現われる場合は社会運動化する

 

<例1>法然浄土教の成立を、中世日本の支配思想=「天台本学論(如来蔵思想)」を骨子とした「顕密仏教」との対峙から生じた仏教変革運動として考える。

 

<例2> 例を、仏教に固定せず、議論を敷衍するためにキリスト教(『聖書』)にとって見よう。『聖書』(新約)イエスの社会運動は、ユダヤ教の律法主義者からの弾圧と、イエスとその弟子の抵抗運動である。『聖書』(ファリサイ人への手紙)によれば、イエスのユダヤ主義への抵抗運動は、安息日における労働にまつわる解釈という「ささいな」問題に端を発する。移動中の弟子たちが空腹のあまりに安息日ではあるが、路傍の「麦の穂」を手で掠め取り、手籾し麦粒を頬張ったことへの「律法主義者」論難から始まる。イエスとその弟子の律法主義者の弾圧と抵抗=イエスの社会運動としてキリスト教がこの世に誕生してきたことを描く。